ONE MAN SHOW TOUR 2019 「PURPLE DIAMOND」

──なおかつ、さっきの『月の裏で会いましょう』の話じゃないけど、どんな世界観にしていくかというアレンジメントの面白さやクリエイターとしての楽しみだってあるだろうし。

そうなんですよねぇ。例えば『愛のメモリー』(2005年発表のシングル/今回のベスト「COVERS ONLY」にも収録)をささやくように歌うなんて、当時誰も発想してないと思うんだ。だってあの曲は、“SHIGERU MATSUZAKI”が熱唱する歌ですから! だけど僕は、あの歌詞世界を演じるにあたり、「朝の光が差し込んでくる、美しくもはかない情景だから…これはささやこう」と思いましたね。

──そんな風に、及川光博の表現と音楽史をオリジナルとはまた違った角度から聴かせる「COVERS ONLY」というわけですが…、このCDの中でもう1曲、個人的に敢えて今のタイミングで触れておきたいのが、『Romanticが止まらない』(オリジナル:C-C-B)のカバーです。この曲、先日亡くなった日本歌謡界の大作曲家・筒美京平さんの楽曲で──筒美京平さんはミッチーも大きな影響を受けた存在であり、実はミッチー自身も、(今回のベストには未収録だが)『パズルの欠片(かけら)』『CRAZY A GO GO!!』、あと『君の罪、僕の雨。』という3曲のオリジナル曲を筒美先生とのコラボで発表したことがありましたよね。

よっ! 有識者!(笑) そうなんですよ、筒美先生とは3曲一緒に作ってまして。とても優雅な紳士で、大御所でいらっしゃるのに、ふんぞりかえるようなそぶりは全くなく、一緒にお食事もしましたね。…思い出すのは、(筒美先生との最初の仕事になった)『パズルの欠片』を作るとき、当初は小沢健二さんの『強い気持ち・強い愛』みたいな世界を提案したんです。あれは…2000年でしたっけ?

──はい、『パズルの欠片』は2000年8月リリース。約20年前です。

そのとき、僕の提案に対して筒美さんから返ってきた言葉は、「いや、及川君は色気を、大人の色気を出していこうよ!」で──それでニューロマンティック・テイストになったのが、『パズルの欠片』だった。ホント、あのとき筒美さんは僕に──20年前だから30歳そこそこの僕に、大人の色気を要求したんだよなぁ。今考えたら色気なんてまだ全然足りなかったと思うんですけど。

カウントダウンライヴ 2016-2017 「ゆくミッチーくるミッチー」

──音楽的にはミッチーがいろんなベクトルの方向性に挑戦していた時期ですけどね。

そうだね。だから、そこなんじゃないかな、僕のアイドルからの脱皮は。まあ、もともとアイドルじゃないんだけど、当時はアイドル的なことをわざとトゥーマッチにやることによって異形感(いぎょうかん)を演出していたわけですよ。そこから筒美先生は、ちょっと敷居を高くした、そういう…“ブランディング”をしてくれたって言うかな。…うん、今思うと、ただの楽曲提供というコラボレーションではなく、本当に僕のステージを上げてくれた感じがします。

──それと、実はそれまでのミッチーって自分がすべてプロデュースする形で作品を発表していたのに、筒美先生と一緒に曲を作ったころから他者とのコラボレーションを徐々に広げていくことになりましたよね?

その通りです! 当然の流れなのか偶然なのか…いや、偶然なんてないな。必然的にあの時期なんですよ。最初のレコード会社との契約が「アルバム3枚」だったんです。生き残りをかけた戦いですよ。だから3枚目のアルバム(1999年発表の『欲望図鑑』)まで自分の中にあるものをすべて出し、全力で作って──で、「さあ、これからどうしよう?」となったときに、プランがなくて(苦笑)。っていうことで、いろんなコラボが始まったんですね。そうしていく中で、他者の曲を自分の歌として歌うことにも恐れが無くなっていって。そのきっかけは、間違いなく筒美さんだったと思います。

──カバーというのは面白いものですね。その筒美先生の作品だけでなく、こうしていろんな邦楽をカバーしていくと、ある意味、音楽の流れとか文化の継承みたいな部分も感じられて、とても興味深い気がします。

ええ、ええ。やっぱり僕は、良くも悪くも昭和の子ですよ! 『ベストヒットUSA』をかじりつくように見ていた少年って感じがするし、同時に『ザ・ベストテン』を家族みんなで見ていた子供という感じもする。要は、“雑多”なのよ。でもその雑多が楽しかったんだよね。

──…というディスク2のカバー集の話を聞いても、改めて、今回のタイトルじゃないですけど、“ヴァンサンカン”=25年という節目に及川光博の音楽的軌跡と今が凝縮されたベストアルバムができたと言えそうですね?

そうなっているよね。と言うか、そうだといいと思ってる。…変な話さ、例えば長いことファンをやっていてくれた人が、何かのきっかけで「もう…ミッチーはいいかな」と思ったとするじゃない? だけど、もし僕の音楽がその人の青春の1ページか2ページに含まれていたとしたら、たとえ過去作を中古CDショップに売っちゃったとしても、こういうベストだけは手元に残してほしいな(笑)。まあ、ベストって、そういうところもあるじゃないですか? まさに「思い出のアルバム」だからさ。

1997

──はい(笑)。また、これから及川光博の音楽を聴こうという初心者にも、自信を持って差し出せる作品にはなってますよね?

もちろんです。だから、一刻も早く出会ってほしい! ちょっとした照れくささはあるけれど、20年以上前の自分の作品を恥ずかしいとは思ってないので──。それはさ、僕が遅咲きと言うか、20歳そこそこのデビューじゃなくて本当によかったと思うよ。

──ミッチーがデビューしたのは1996年5月、26歳のときでした。

そう、デビューが決まった25歳のときにやっとバイトを卒業できて。…話が自分語りになっちゃうんだけどさ、そのとき、就職先の保険もかけていたんですよ。とあるイベント制作会社だったんだけど。僕はバイトながらよくできる子で(笑)、企画書とか進行台本とかをサラサラ書いていたんです。で、そこの社長に「及川くん、誰でもなれるものじゃないからスターなんだよ。だから、もうスターになるなんて諦めたら?」と言われたわけ。でも僕は「社長、両親との約束で、25歳まで目が出なかったら諦めることになっています。だから残りあと少し、思いっきりやらせてください! …で、ダメだったら、正社員にしてください」って言ってて(笑)。そしたら、25歳の夏にデビューの話が決まったからね。ホント、良かったなぁ。

──しかし、その当時の及川青年は、まさかそのまた25年後に、こういう25周年記念のベスト盤を産み落とせるとは…想像すらしてなかったでしょうね?

もちろん。だから…、決して謙虚な人間だとは思ってないんですが、やはり、常に初心って忘れてはいないし、絶対に調子に乗れないよね。この芸能界、いろいろ見てきて思うのは、慎重さって大事なんですよ。要は、常に負けられない戦いで──負けても事務所が何とかしてくれるっていう考え方は、僕の中にはなくて。セルフ・プロデューサーですからね。そこで無理して意地で勝負に出て、大敗した時のダメージを考えると…、やっぱり負け戦(いくさ)だったら最初から戦わない。

──だからこそ、毎年ツアーをやって、毎年のように新作アルバムを出すっていうことを本当に25年間、実直に繰り返し、積み上げてきた歴史が今のミュージシャン・及川光博を作ったという。

うん。それが信頼と実績になって今につながっているのであれば、私は“勤勉な男”だということですね。

──まさに。それが作品となったのが今回のベストアルバム『XXV(ヴァンサンカン)』であり、ここまでやってきた以上、この人はその積み重ねを今後もマイペースでやっていくんだろうなと思えますが?

いいねぇ(笑)。その“マイペース”ってのが一番です! ストレス少なめで伸び伸びと表現活動ができていって──で、いずれ30周年、35周年…ってなったら、もう還暦ですからね(笑)。とりあえずこのまま還暦まで続けていければ、やっと成功かなって。

──還暦=60歳は、一般企業で言う良い定年を迎えることになると(笑)。

まあね(笑)。…いや別にやめる気はないんですけど(笑)、でもそういう還暦を目指して、笑顔で踊り続けます!

──(笑)それが50代の抱負ですか?

そう。もう、このままマイペース・マイワールドで積み上げていくのみです! …そして、すたれたくないので、流行りたくないです!

──またそれを言ってます(笑)。

すみませんねぇ、おんなじことばっかり言ってて(苦笑)。

──でも、それもまた、ミッチーが首尾一貫している証明でもありますからね。

そうですね(笑)。…もし僕にニーズがなくなって、プロとしての音楽活動ができなくなっても、趣味でバンドを組みますよ!

──(笑)そんな今のミッチーのバンドサウンドが、このインタビューを皆さんが目にする頃は全国各地で披露されているはずで──今回のベストアルバムともども、ミッチーがお近くへ行ったら、素晴らしいバンドメンバーと奏でる生のライブの良さをぜひご体験あれ! と、僕からも言っておきたいです!

ありがとうございます! …真面目に生きるしかない男の“今”を、ぜひご堪能ください☆